第1章 なぜ、この文章を書くのか
いまの結果と、その先の成長
育成年代で、何を最も大切にしたいか。私の答えは、子ども自身が望んで取り組み、成長していける環境をつくることです。
これは、技術や勝敗を軽く考えるという意味ではありません。私も、子どもができることを増やしていく姿を見たいし、挑戦した結果が実ることを願います。ただ、いまの結果を喜ぶことと、その先の成長に必要なものを考えることは、いつも同じではないと感じています。
私は、サッカーの指導者であり、保護者でもあります。教える側からは、身につけてほしいことや改善してほしいことが見えます。保護者の立場からは、本人がどんな気持ちで取り組んでいるか、サッカーが生活の中でどのような位置を占めているかも気になります。その両方の立場から、子どもにとってよい関わりとは何かを考えてきました。
この文章では、その考えを整理します。私の見方がすべて正しいと示すためではなく、私自身の判断を確かめ、同じように子どもの成長に関わる方と、問いを共有するためです。
幼いころの成功が、足かせになることがあった
私の中に残っているのは、幼いころの成功体験が、かえって足かせとなり、成長が見られないことがあった、という経験です。
早い時期にうまくできることや、結果を出すことには価値があります。努力が実った喜びも、周囲に認められたうれしさも、否定したいものではありません。だからこそ、それがその後の挑戦へつながらないとき、何が起きていたのかを考えたいのです。
ただし、ここで一つの原因を決めつけることはできません。成長が見られなかったと私が感じたことと、その原因が過去の成功だけにあったことは、別の話です。身体の変化、取り組む内容、周囲の状況、本人の関心など、確かめるべきことはあります。私が成長として見ていた範囲が狭かった可能性もあります。
この経験から、いまの得意なことを認めながら、まだできないことにも向かえる環境をつくれているか、と問うようになりました。成功のあとに必要な関わりは、第4章で考えます。
これは、子どもに「成功に甘えている」と言いたいのではありません。成功のあとにどのような経験を用意し、何を認め、何を一緒に考えるかは、大人の側にも向けるべき問いです。幼いころに目立った子の将来を一括りに判断することなく、一人ひとりの変化を見たいと思っています。
結果が出たら、それでよいのか
もう一つ、私が考えてきたのは、反則や危険なプレーと、成功体験の関係です。
勝った、相手を止めた、失点を防いだ。その結果がよかったとしても、そこに至る行為までよかったことになるのでしょうか。大人が何も言わなければ、子どもは、その手段も認められたと受け取るのではないか。私は、そうした点を気にかけています。
ここでも、特定の子どものその後を、ある一場面だけで説明することはできません。反則を見過ごすと必ず同じ行動を繰り返す、という因果関係を、私が確かめたわけではありません。私が問いたいのは、育成に関わる大人が、結果と手段をどう区別して伝えるかです。
子どもが自ら望んで取り組むことを大切にしても、何をしてもよいことにはなりません。相手の安全やルールを守る必要があります。反則を止め、何が問題だったかを説明し、そのうえで別の方法を考える。その関わりも、本人が考える機会を支えるものにできるはずだと、私は考えています。
この論点は、第5章で扱います。私が大切にしたい成長には、プレーがうまくなることに加え、自分の行為を考えることも含まれています。
「自分から」を、子どもへの要求にしない
子ども自身が望んで取り組むことを重視すると、「自分からやる子だけがよい」という評価につながるおそれがあります。私は、そういう分け方はしたくありません。
本人の気持ちは、いつもはっきり言葉になるとは限りません。大人が期待するような目標を話せないこともあります。自分から行動しているように見えないときに、意欲がない、と結論づけるのは早いのではないでしょうか。
大人が先に答えを決め、その答えを本人の口から言わせようとするなら、選ばせた形にはなっても、本人の意思を確かめたことにはなりません。私は「自分で決めたのだから」と責任を押し戻す前に、その子に何が見えていて、何が選べたのかを考えたいと思います。
この文章でいう「望んで成長する」は、毎日高い目標を掲げることや、つらくても必ず続けることではありません。面白いと思って取り組むこと、自分に必要だと感じて試すこと、うまくいかないことを誰かと考えること。そのような取り組み方を、本人のものとして育てていくことを指しています。
ただサッカーを楽しみたい子に、絶えず上達を求めることも、私の主張ではありません。大人の考える成長へ向かわせるために、子どもの「やりたい」を使ってしまわないようにしたいのです。
大人も、自分の判断を振り返る
JFAの「選手育成のコンセプト」は、子どもにとって何がよいかを判断の基準に置く姿勢を示しています。これは協会の育成方針であり、私の考えのすべてを研究によって証明するものではありません。ただ、大人の都合だけで判断していないかを問い直す際の、拠り所になると考えます。R1:JFA「選手育成のコンセプト」
指導する側には、集団を動かす必要があります。保護者には、生活を支え、送迎や時間を調整する役割があります。大人の事情をなくすことはできません。それでも、こちらが進めやすいことと、本人に必要なことが一致しているかは、確かめたいと思います。
一つの試合で勝ったかどうかだけでなく、本人は何を試そうとしたか。何がわからず、何を面白いと感じたか。失敗をどう受け止め、次に何をしてみたいか。その問いを持てれば、同じ出来事の見え方も変わるのではないでしょうか。
このような問いかけに特定の効果があると、私が検証したわけではありません。ここでは、子どもの内側にあるものを想像だけで決めず、本人と確かめようとする、私の姿勢として述べています。
経験と研究を、混ぜずに考える
本稿は、私の経験と考えを中心にした論考です。実際に確認したことと、そこからの解釈を分けて述べます。本文中の仮想例は、経験した出来事とは区別して示します。
研究を参照するときは、何を調べたものか、どのような子どもや競技を対象にしたかを確かめます。ある指導環境と継続の関係が見られても、それだけで、その指導が継続を生んだと決められるとは限りません。研究が扱う範囲と、自分の意見として述べる範囲を分けます。
「本人が望んで取り組むことを最も重視したい」という優先順位は、私の立場です。安全や健康を後回しにしてよいという意味でも、育成の成果を意欲だけで説明できるという意味でもありません。その限界を認めたうえで、私が判断の中心に置きたいことを明らかにします。
なぜ、ゲームを作ったのか
口で伝えるだけでは、伝わらないと感じることがあります。選び、そのあとを見届け、振り返る体験を通じてなら、別の形で問いを共有できるのではないか。そう考えて作ったのが、「0-2は危険なスコア」です。
タイトルには、いまの結果だけで、その先まで決めつけたくないという思いを込めました。作品の視点と仕組みに、この考えをどう結びつけたかは、第8章で説明します。
ただし、ゲームが子どもの意欲や能力を高めることを確認したわけではありません。現実の指導を代わりに行うものでもありません。この論考も、ゲームを勧めるためだけの説明にはしたくありません。読んだ方が、ゲームを遊ばなくても、日々の関わりを考える材料を持ち帰れる文章にしたいと思っています。
この章で明らかにしたかったのは、私の問いの所在です。幼いころの成功も、いまの勝敗も大切にしながら、その先の挑戦を支えられるか。子どもに成長を求める前に、本人が取り組める環境を、大人が用意できているか。私は、その問いから育成を考えたいのです。